自然農について

川口 由一    

耕さない

 いのちの世界におけるいのちたちのありようを見ますと、あるいはたくさんのいのちが栄えているその場を見ますと、いずこも耕していません。それは、自然界をみれば、すぐ納得が入るはずです。耕していない自然界においては、豊かないのちの営みをして、そこで食べて食べられて、殺し殺されて、共存共栄、親から子、子から孫へと絶えることなくいのちが栄え続けています。いのちの舞台は豊饒であり続け、生かし合い殺し合いの関係のなかでいのちが栄えています。その場にふさわしい動植物が生命活動を営み、共に生死のめぐりを重ね、必ず自ずからそのいのちにふさわしい環境に変化し、いのちたちの最善の舞台となっています。

  耕さなければ、多様な生物たちの生存と生死のめぐりを自ずから成さしめ、健全なる生存が約束され続けるものであり、実に多くの動植物達がその場その気候その環境に応じての生命活動を盛んにします。耕さなければ、無数のいのちたちが生死にめぐったその死体が地表に地表にと重なってまいります。過去のいのちたちの歴史の積み重なりでもありますが、そこに根をさして次のいのちのお米や野菜草々が親の続きを見事に生きてまいります。その死体の層には、死体を食べて生きる小さな生物、目には見えぬ微生物たち、無数に今・今・今を生き死にしています。もちろん今を生きる地上の小動物の排泄物を食べて生きる生物たちも営み盛んです。地表でも多種多様の生物が、目的とする作物の足元で作物と共にいのちを栄えさせています。

 

 不耕の田畑では、過去のいのちたちの死体と歴史を舞台にして、地中でも地上でも多くの生物がひたすら我がいのちを生きています。この舞台が殊に大切であり、決して耕し壊してはなりません。耕せば多くの生物たちを殺すことになり、大切ないのちの舞台を壊して、不毛の地と化さしめます。過去のいのちたちが生き死にしてきたこの舞台で、今のいのちが生きることを約束されており、この舞台ではかり知れない多様なる他の生物が常に生きており、他のいのちが生きているところで、それぞれが生きることができ、お米も野菜も生きることができるのです。耕した田畑でお米だけ、野菜だけ育てる、そのような姿はいのちの世界にはあり得ぬことであり、問題を招くこと限りなしです。

草や虫を敵にしない

 お米という草だけ、あるいはキャベツという草だけでは、一つの生命圏で存在しえません。いろんないのちたちが自然にそこに在ってこそです。いろんな小動物が住める環境はいろんな草が在ってこそで、草は敵にできません。あるいは、肥料はいらないというところでは、草を敵にすると肥料が要るようになります。土壌改良はいらないというところで、草を敵にすると足元の状態が片寄ります。いろんな草が生き死にすれば、草の一生のなかでそれまでになかったいろんなものを作りもたらしてくれますので、いつも調和のとれた豊かな足元になります。そして、草があれば土をフカフカさせます。たくさんの小動物を生かします。一つひとつのいのちにとっても、全き生命活動を成せる生命圏になります。

 

 一枚の田畑の生命圏に自ずから存在する多くのいのちがすべて生きるようにしておけば、そこは常に豊かないのちの舞台になり、そこで草も虫も敵にしないでそのまま任せておけば、いのちが大いに栄えます。それはとりもなおさず作物を生かし、私たちを生かしてくれることになります。そこで食べることのできるものを採集すると採集生活ですが、お米やキャベツを育てる栽培生活をするならば、目的とする作物が他の草に負けないように、草の成育を押さえる必要があります。基本は特に幼い時期に他の草に負けないように草を刈り、その場に敷いておきます。作物が大きくなれば、足元に草がある方がいいのです。

 あるいは、地力において、環境において、虫との関係において、乾燥具合や湿り具合において、土を流失させないことにおいて、土を豊かにするにおいて、草は絶対に必要です。草は敵では決してありません。栽培生活をしているという認識に立って、最小限度の手を貸してやるというところで、草を刈り、あるいは苗床の草を抜くのです。

 

 虫においても同じです。自然界においても自然農の田畑においても、害虫益虫の別なく、有効無効の別なく、すべてが故あってそこに誕生し、そこに今を生き、そこに死んでゆきます。いずれも一体となってこの今の絶妙の営みに欠かすことの出来ないいのちたちであり、いのちたちの営みをさらに豊かにするものでもあります。

 

 例えば、春先にキャベツに青虫がたくさんついて、葉っぱが食べられて網の如くになっていくことがあります。それにとらわれなければ、そのまま放っておいても、キャベツはそのまま中心のところから葉っぱを作って結球していきますので、芯まで食べられなければ外の葉っぱがなくても大丈夫です。放っておくには、周囲の草々を適当に残しておかないと、キャベツだけ、作物だけだと、小動物が食べるものがないので、作物は冒されます。草との関係をうまく保ったならば、草も小動物も作物も、そこで生死にめぐって、いのちの営みをすることができます。

 

 ところが、例えば天候の加減で、あるいは生ゴミをたくさん投入したゆえに、アブラムシがたくさん発生するようなことが起こります。あるいは、青虫やハスモンヨトウがたくさん発生することがありますが、その時には虫を殺します。草に負けないように草を刈って成育を押さえるのも、草を殺していることになります。これは栽培しているということで、必要不可欠のことです。そのことによって、キャベツが生かされ、お米が生かされます。特に姿の低いキャベツなどの柔らかな葉物の野菜においては、そういうことが必要になります。

 虫の異常発生による被害は、作物も草々も小動物も調和をもっていのちの営みができないような環境になっている時に起こる出来事です。そういう時は、ためらわず、憎しみを持たないで、慈しみの気持ちを持って殺す。さらに、何も思わずに殺す。それが生きるという行為です。人という生き物は他のいのちを殺して食べないと生きることができない定めなのです。ためらうことなく絶妙に殺して生きたらいいのです。時には草を刈って草を殺して草の成育を押さえ、時には虫を殺して作物のいのちを助け、最後に作物のいのちを殺して私のいのちに変える。そうした逞しく生きる優れた智恵と技術能力を必要としています。

いのちに添い、応じ、従い、任せる自然農

 “自然”という言葉は、“自ずから然らしむる”(おのずからしからしむる)ということを示しています。何が自ずから然らしむるのかというと、いのちがいのち“自ずから然らしむる”です。いのちというものに、自然という性質があるということです。あるいは、自然という言葉を使って、いのちを認識しています。いのちがいのち自ずから然らしむる、いのちの世界。即ち、生命界、自然界ですが、いのちというものは、自ずから然らしむる性質を持っているということでもあります。言葉を変えれば、勝手にそうなるということです。例えば、季節の移り変わりが終わることなくあり続けている自然界ですが、誰も操作していません。勝手に秋がきます。自然に秋がきます。絶妙にいのち自ずから然らしむる絶妙の秋の訪れです。

 すべてのいのち、私たち人はもとよりお米やスイカ、大根、白菜、木々、草々、鳥、獣、それぞれのいのち自ずから絶妙に然らしむる絶妙の存在であり営みであります。そのようになっている自然界で、そうしかならない自然なるいのちでありますゆえに、添い応じ従う他になく、添い応じ従い任せることによって、最善の結果をもたらしてくれることになります。自然に添い応じるのが最善、それぞれのいのちに従い任せるのが最善です。いのちは自ずから芽を出し、自ずから育ち、自ずから花を咲かせ、自ずから実をつけます。自然なるいのちは、自然に全うします。間違うことなく、あるいは休むことなく、狂うことなく、いのちはいのち自ずから自然なる性質そのものにして、絶妙の営みにして、成熟完結して、他に恵みをもたらすことも自然なる自然界です。

 

 自然農は、こうした自然本来である自然なるいのちの営みに添い、応じ、従い、任せて、このいのちの営みには決して手を出しません。いのちの営みを損ねるようなことはいたしません。

 

 ところで、作物にはそれぞれに異なった性質があります。またその時々によって田畑の状況も異なります。気候も違います。いのちの世界では決まったものや同じものはなく、固定することもありません。日々刻々年々、変化変化です。決まった方法や形では応じきれません。その時その時の気候に応じ、作物の性質に応じ、田畑の状況に応じ、土質に応じ、年々の変化変化に応じ、添い従って、適期に的確に手助けしてゆき、最後は、お米に任せ、野菜に任せ、作物に任せ、天候に任せ、気候に任せます。

 いのちの世界では、的確に応じることのできる智恵と能力が必要となります。任せられない、応じられない、従えない。すべてを自分の思い通りにする。あるいは小さな自己本位の生き方しかできない。他人が言っていることを聴けない。いのちの声を聴けない。自然界の法則を観ることができない。他のいのちに添うことができない。そのような育ち方になっている人の場合は、お米の性質に添えず、それぞれの作物の性質に従えず、気候に応じ、田畑の状況に応じて絶妙に手を貸すことができません。いのちを観ず知らず、自己本位の狭い視野や誤った知識から非自然となり、いのちの道から外れて作物のいのちを損ね、苦労を重ね、不幸な結果に陥ってしまいます。今日の自然界における人間本位から生じる環境汚染、破壊、資源の浪費、農業における遺伝子を操作しての品種開発を始めとする現行の化学農業等々、諸々の問題の根本は、とりもなおさずこうした姿から生じることでもあります。

 

 人の真に応じられるかどうか、自然に応じられるかどうか、それぞれの作物に応じられるかどうか、いのちに応じられるかどうかは、一つのことであり、一つの智力能力です。智恵に曇りなく心柔軟であれば、見事に育て、見事に生きてゆくことができます。本来人には、素直で謙虚で誠実にいのちあるものを育てる智力能力を、誰しもに与えられ宿しているはずです。それを見失った状態では、厳しい自然界のなかで豊かな自然の恵みをもらうことはできません。方法技術も大事ですが、習得した方法技術や学んだ知識の根底で、人としていのちの世界で生きる基本の資質を養い働かせていなくてはなりません。それは自然農を実践するに必要となる基本の資質であり、この美しい豊かな宇宙の楽園、神々の花園で生きてゆく人としての基本なる資質でもあります。