学びの内容
赤目自然農塾では、学びに来られる方の自主性を尊重し、規則を定めず、自由のなかで学ぶことを大切にしています。
川口さんがご自分の生き方として大切にされてきた “いのちを尊重する” あり方が、塾運営の指針として受け継がれ、今も生かされています。
何ものにも束縛されない解放されたなかで、かけがえのない一人の貴い存在として尊重されれば、誰しも人本来のいのちの輝きを取り戻して生き生きと躍動し、眠っていた智恵と能力が目覚め、真理を自ずから学び体得してゆくものであり、そこでこそ学びが成就されることを、川口さんは塾のあり方を通して示されました。
そして、一人ひとりの塾生が、自然農の栽培の仕方と心を会得してゆけるよう、次のような学びを行っています。
1、共同作業を通しての学び(土曜日)
定例集合日の土曜日には、田畑の周辺の整えを共同で作業することを通して学んでいます。
田畑で作物を育てるためには、田畑の周りを整えることが必要になります。例えば、畦道の草刈りや補修をする、水路を整える、崩れた石垣を積む、川に橋をかける、周辺の木々を切る、動物対策用の柵を作る、雨宿りや休憩のための小屋や道具小屋を建てる等々があります。これらの作業を共同で行うことを通して、農的暮らしに必要な実際の作業方法を体得してゆきます。
共同作業では、それぞれの作業毎に中心になる人を決め、その中心の人の指示に添って作業を進めます。それは、一つの目的に向かって多人数で作業を進める場合のあり方として、川口さんが示してこられたあり方です。
中心になる人は、一つの仕事をまかされ、目的に向かって物事を進める最善策を考え、答えを出して、他の人に指示します。そのなかで、人としての智恵と能力を大いに育ててゆきます。また、添う人も、いかに能力があったとしても自分の分を悟って部分の仕事に徹するなかで、方法技術を会得し、人としての能力をさらに養い、やがては自分が治める者として立つにはどのようにあればいいのかを学びながら育ってゆきます。そして、目的に向かって揺れることなく一つになって働くなかで、人と共に生きる喜びを感じながら育ってゆきます。
この共同作業の学びに参加するかしないかは、個々の塾生の自主的な判断にまかされています。作物を育てる学びを最優先にすると同時に、他から課されたなかでは喜びをともなって真に学び育つことができないからでもあります。
2、言葉を通しての学び(土曜日の夜)
定例集合日の土曜日の夜は、地主さんの山荘をお借りし、自然農のお米や野菜を中心に料理した夕食をいただいたあと、言葉を通して学びを行っています。
話の内容は、自然農の基本のこと、自然界の営みのこと、あるいは農を超えて、人の心のこと、芸術、宗教、教育、政治、経済、医療など人が生きるに必要な分野のこと等々、代表の中村が進行役となり塾生のなかから生み出され展開してゆきます。言葉を通しての学びにおいては、決して対立的にならないで相手の話を聴き通すことを基本の姿勢としています。また深く理解してゆくために、言葉にとらわれることなく、その言葉が示しているところを見ながら聴くように努めています。
この学びは、話を聴くこと、思索すること、言葉にすることを通して、自然農の理解を深め、いのちの世界の認識を確かにし、さらには私の存在を明らかとして、人として総合的に育ちゆくための大切な機会となっています。
3、実習の学び(日曜日の午前)
定例集合日の日曜日の午前中には、実習の学びを行っています。スタッフが言葉で説明をしながら、畝の立て方、種の降ろし方、草刈りや手入れの仕方、収穫の方法等、その季節の田畑での農作業を行います。塾生は、その姿を見て、自然農の実際の作業手順や方法を学びます。また、道具の扱い方、身体の使い方、さらには作物への向かい方、人としての立ち方なども深く学んでいます。田畑に立って作業する人の姿を見ることから、大切な学びの一歩が始まります。
「見ることを通して学ぶ時には、田畑の作物や作業している人の姿だけを見るのではなくて、すべてのものが存在しているいのちの世界の空間を見るようにこころがけてください。」と、川口さんは言われます。一つひとつの形あるものを見ると同時に、何もない空間、すべてのいのちを存在させている“静寂(しじま)”を見ることによって、いのちの世界の理を深く見る眼、いのちの本体を察知する眼を養うことになってゆくのです。そして、その眼を養ってこそ、どのようなことが起こっても、自然界の営みに応じて、目的とする作物を見事に育てる智恵と能力を働かせることができるのです。
4、実践を通しての学び(日曜日の昼食後)
赤目自然農塾では、塾生それぞれが水田と畑を借りて、お米や野菜を実際に自分で育てる学びを行っています。
空いている区画のなかから、それぞれに自分の田畑の場所を定めます。どのように田畑を整え、どのように作物を育てるのか、すべてのことが私にまかされています。一人で野に立ち、とらわれるものなく、そして自らの責任のもとで、道具を扱い、畝を作り、種を降ろし、作物を育て、収穫します。学んだことを田畑において具現化してゆくなかで、自然界に生かされ生きる喜びを感じ、自然農の栽培の仕方を確かに身につけ、このいのちの世界で生きてゆく私の治め方をも体得して、さらに学びを深めてゆきます。
さらに理解を深めたい方のために、過去の川口さんのお話をご紹介いたします。
「 赤目自然農塾での学び方 - 静寂のなかで静寂をも見て学ぶ - 」
赤目自然農塾 ・ 山荘での川口さんのお話
平成19年3月18日
山荘でのこと
初めて来られた方が多くて、少しとまどわれておられるのではないかと思うことがあるので、説明しておきます。
山荘においての事の進め方ですが、毎回中心になる女性の方がお母さん役として一人決まっています。夕食と明日の朝食とお弁当の三食の準備がスムーズに進められるように、中心の方が立てられた献立に向かって、台所に入る方はそれに添って料理を作っていきます。中心の人が一人いて、中心の人が治めリードしていき、それ以外の人は全員、一人のお母さん役に添ってゆきます。そこで添い方を学んでもらいます。中心の人は、全体の治め方、リードの仕方、そして完成のさせ方を学んでもらいます。そのことによって食事が整うという形をとっています。
一人の人を中心に、そしてそれなりに事情をわかっている人6~7人の人が台所に入っていますが、 それ以外の人は、それぞれの思いに任せています。山荘に入ってこられたら、台所の様子をみられて、あるいはその流れを見られて、主の方にどういう献立をされているのかなどを聞かれて、自分の判断で自分の出来るところに入っていただいて、お手伝いをしていただく。
ところで、昨日は台所に入る人がたくさんおられて、人数がありすぎて事が少し運びにくいのではないかな…という感じがしました。それで、全体の様子をパッと見られて、これは少ないなあ、お手伝いしたいなあと思ったら、自分で仕事を見つけ出されて添ってゆく。そして、多いなあ、これ以上多くは必要ないかなあと思われたら、「手が要りますか。」と尋ねられて、「お願い。」と言われたらそこに入る。あるいは、部屋の掃除やテーブルの準備等も同時に進めてください。
ところで、人手が足りて用事のない方の場合は、何かしなければならないと思わずに、自分を治めることだけに専念してくださったらいいです。休まれるなり、仲間と話をされるなり、明日のことを思われるなり。何かしないといけないと思わずに、料理が整うのを静かに待っておられてください。遠慮しないで休んでおられたらいいのです。
共同作業のこと
田んぼの共同作業も課すことなく、自らの意思に任せています。共同作業に参加しないで、自分の田畑で作業を進めようと思われる方は、そちらの方に重きをおいてください。共同作業に参加しないで、自分の田畑で勉強してくださったらいいのです。
ところで、共同作業に参加される場合も、昨日は四カ所くらいで並行して進めましたが、中心の人を決めています。中心の人がどのような作業の進め方をするかというのは、僕とやりとりしながらだいたい決めておられますので、私はこの作業と決められたら、その中心の人に添いながら作業をしてください。そういうあり方でのぞんでくださったらいいと思います。そこで、全体の学びの場の整え方、田畑全体の整え方を学んでいってもらいます。多人数で事を運ぶ場合、常に中心の人を決めている。そのように思って下さい。
ところで、それぞれが借りられた田畑においては、一人ひとりが思うように、納得のゆくように進めながら、実践を通しての学びを重ねられてください。
自然農の実習と実践の学び
それから、自然農の学びの仕方ですが、赤目塾では夜は言葉を通して、田んぼでは実際に自分がやることを通して学んでいってもらいます。特殊な方法技術を身につけないといけないということはありません。
日曜日の 10 時 から始めますが、皆さんの前でその季節にする作業を僕とスタッフの方とやりますので、それを見ながら「そのようにすればいいのか。」ということを理解していただいて、自分の田畑でそれを実践してゆく。見ながら理解していただく、認識していただく。そして田畑で体験してゆく、実践しながら身につけてゆく。それを基本にしています。
ですから、特に初めての方は、作業の見えるところに立ってください。百人二百人と多人数ですから、見えにくくなると思うのです。遠くから来てもらっても、見えないままで終わってしまったら申し訳ないので、出来るだけ見える場所に、自ら積極的に移られて、見ながらの学びをされてください。
それから、午後はそれぞれの田畑で実践してもらいます。指導する方が三人、田畑を回ってくれますので、回って来られたら、必要あれば具体的なところでも少しアドバイスをもらわれる。そのようにされてください。
月に一回ですので、実習田や周囲の田畑をよく見られてください。私の育てた野菜や田畑の姿を見ると同時に、周囲の田畑や周囲における作物の育ち方、周囲の人達の作業の仕方などもよく見られて観察されて、さらに学びを確かなものにしていってほしく思います。
その時の私の治め方ですが、基本の治め方があって、それを体得していなかったならば学びが深まらないなと思います。見ている時に、技術的なことや作業の進め方、姿形だけを見ていたのでは、なかなかそれが身に付かないのではないかと思います。見る時に、道具の使い方、手や身体の動かし方、作業の進め方を見ると同時に、周囲を見る。周囲というのは、説明している僕の立っているところ、あるいは皆さんの立っているところ。自分の存在しているところを見る。あるいは田んぼのあるところ、作物が育っているところを見る。その見るべきところは、姿形のないところ。「空間」という言葉がありますよね。何もないところ、空間…。あるいは空間の性質から「静寂の世界」、「しじまの世界」とも言いますよね。あるいは、「いのちの世界」。そういう言葉が示しているところを見ることの大切さです。
姿形のあるものは、生まれる、育つ、死ぬ…と生死にめぐります。「静寂」「しじま」「自然界」というのは、それらのすべてのいのち達が生死にめぐっている舞台でもあります。あるいは、作物が芽を出して育って、花を咲かせて実をつける。その営みをする場です。作物の姿だけを見るのではなくて、それらのものが生死にめぐっている大元の舞台のところを見る。それを認識する。それを身体で体得する。それを欠かしたらだめじゃないかと思うのです。
見ている時に、それを認識すると同時に、見ている私が、そのしじまを、静寂の世界を、宇宙空間を、自然界を、身体で認識している、体得している。あるいは、しじまにしっかりと一人立って、作業の進め方を見る、作物の育ち方を見る。
常に、田畑に立たれる時に、あるいは草花と向かい合う時も、草花も私も存在しているしじまのいのちの世界を、しっかりと認識しているように心がけていかれたらいいと思います。それが欠けていたら、自然界に一人で立って作業を進めることは難しいのではないかと思います。
例えば、野菜の花は美しいし、野菜の足元にある草花も美しいのですが、その美しい草花と私だけではだめなのです。あるいは、種を蒔いている種と私だけではだめで、あるいは大地と私だけではだめで、それらをあらしめる本体、何もない空間、この肉眼では見えない大いなるものをしっかりと見ている、しっかりと認識している。それを習慣づけていかれたら、やがて色姿形のないものが見え、香りなきものが香り、音なきものが聞こえてきます。そうしますと、このいのちの世界にしっかりと私が存在しているということになってきます。そうなりますと、大安心のなかで作業ができます。
方法技術をいかに身につけても、本当の安心は得られません。お米が育たなくても、野菜が育たなくても、私の存在しているところをしっかりと認識できると、まず大安心を得ることができます。そして安心して農作業ができる、日々の生活ができる。人生を全うすることができます。
自然界に身を置くことの大切さと同時に、自然界に身を置く時に、すべてをあらしめる本体の認識と体得を確かにすることの大切さ。方法技術を身につけると同時に、存在しているこのいのちの世界を、正確に、この存在でこの身体でこの五感で、しっかりと体得するようにしてください。それはそのまま真の自己実現です。それと並行して学びを重ねていかれたら、素晴らしいことになるのだろうと思います。
見るだけでお米を育てられるようになるけれども、見ている時も、聞いている時も、作業している時も、このいのちの世界をしっかりと見るように…。しじまをしっかりと認識するように…。しじまにしっかりと私が一人で立つように…。そのように自らを育んでゆかれたらいいのではないかと思います。